“ジャック・ヴィルヌーヴ”プロフィール

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今もっともCool!なドライバージャック・ヴィルヌーヴ

Profile of Jacques Villeneuve

生年月日

1971.4.9

出身地
St-Jean-Sur-Richeleu Quebec,Canada

居住地

モンテカルロ

身長

168cm

体重

67kg

血液型

RH+O型

使用言語
英語・フランス語・イタリア語

足のサイズ

25cm

趣味
コンピューター(含ゲーム)
ピアノ、スキー、ローラーブレイドなど
カラオケが好きとの噂

マネージャー
クレイグ・ポラック(高校時代の恩師)

F3時代
日本でドライブ(チームセルモ)

ジル・ヴィルヌーヴ
1982年ベルギー・グランプリのフリー走行
中に事故で死亡(フェラーリ)。


1986-1992 レーシング界デビューと日本 15歳の時に叔父のジャック・ヴィルヌーブ・シニアの薦めと母ジョアンの許しを得て、ジム・ラッセルのレーシングスクールへ入学。 練習レースの時からすでに才能一端を見せていた。 1988年にはイタリアのアルファ・ツーリングカー・チャンピオンシップに3回出場する。 1989-1991年にイタリアのF3に参戦。4度表彰台に乗る(2位2回、3位2回)。 1992年に日本のF3シリーズに参戦。プロフェッショナルレーサーでの初勝利を挙げる。シーズンは3勝、2位1回、3位5回で総合 2位の成績を残す。日本で過ごした期間は、単にレーサーとしてのキャリアを積んだだけでなく、彼の人生の上でも重要な意味を持 つターニングポイントとなった。それは、スイスで高校生活を送った学校の教師であった、クレイグ・ポラックとの関係である。彼 はジャックに多くの影響を与え、彼のマネージメントを担当していく事になった。 1993 フォミュラーアトランティック カナダのフォーミュラーアトランティック参戦。このカテゴリーはかつて父ジルがF1へ進む足がかりを作る活躍をしたところである。 チーム・グリーンから参戦したジャックは、チームのサポートにも恵まれ、持てる才能を遺憾なく発揮する事ができた。全15戦のシリ ーズで5度の優勝と7回のポールポジションを獲得し、総合3位となった。また、活躍が認められ、この年の“ルーキー・ボブ・ジ・ イアー”に輝いた。 1994 インディデビュー 勢いに乗ったジャックはチームとともにインディカーレースに参戦。エルクハートで初勝利を挙げたほか、インディ500でも2位に入る 活躍で、シリーズポイント94を獲得し、総合でも6位になった。前年に続きインディカーシリーズでも、“ルーキー・ボブ・ジ・イア ー”に輝いた。ちなみにエルクハートでの勝利は、ちょうど10年前にカナダ人として初めてインディカーの勝利をあげた叔父の“ジャ ック・シニア”が勝利を挙げたサーキットだ。 1995 インディチャンピオン獲得 この年新しい、チーム・グリーンでシリーズに参戦。インディ500を含む4勝をあげシリーズチャンピオンに輝いた。このジャックの勝 利はインディシリーズの最年少チャンピオン(24歳)とカナダ人による初のチャンピオンとなった。 また、この年8月にはシルバーストーンでウィリアムズ・ルノーFW17のテストに参加した。このテストの後、ジャックとマネージャ ーポラックは、1996年から2年間ウィリアムズとジャックが契約を結んだことを発表した。 ちなみに、1993年にインディカーのチャンピオンに輝いた、ナイジェル・マンセルは「F1とインディという異なるレースでチャンピオ ンになるなんて誰も思わなかっただろう。」と自伝の中で語っている。まして、彼のあとこの偉業を成し遂げる者がいるとは! 1996 F1デビュー “走る遺伝子の会”構想 ジャック・ヴィルヌーヴいよいよF1デビュー!インディのチャンピオンであり、今や伝説となりつつある“ジル・ヴィルヌーヴ”の息 子であるジャックのデビューは開幕前から、マスコミを賑わせていた。シーズン開幕前の評判はどちらかというと人気先行との見方が中 心で、オーバルでチャンピオンをとってもF1のテクニカルコースではどうかという厳しい声が多かった。しかし、そんな外野の声も、 デビュー戦のジャックの走りに評価が一変した。デビュー戦のジャックの走りはまさに、“驚異的な”あるいは“衝撃的な”ものだった。 チャンピオン候補の大本命、チームメイトのファーストドライバー(と思われていた)デーモン・ヒル、2年連続ワールドチャンピオンの ミハエル・シューマッハを押さえ、いきなりポールポジションを獲得!レースでも終始先頭を走り、終盤エンジントラブルのため、デー モン・ヒルの2位に終わったもののその走りは“ヴィルヌーヴ伝説”の始まりを予感させるもだった。-この1戦により“走る遺伝子の会” の結成が決定した。 その後もジャックの走りは期待通りのもので4戦目のヨーロッパグランプリで初優勝を飾った。この初優勝を含めシーズン4勝を挙げ、ポ ールポジションも3回獲得し、日本グランプリでホイールがはずれる不運なリタイアを迎えるまで、デーモン・ヒルとチャンピオン争いを 繰り広げ、シーズン2位(78ポイント)となる。また、所属チームのロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー・レーシングはコンストラクター ズタイトルを獲得した。シリーズ終盤に1997年のウィリアムズはジャックとハインツ・ハラルド・フィレンツェンとの契約を発表した。 これによって、1997年のワールドチャンピオンはジャック・ヴィルヌーヴとミハエル・シューマッハの間で争われることが濃厚となった。 ※余談、この年のイタリアGPを筆者は観戦したがジャックは完走も7位に終わり、フェラーリの優勝による“ティフォシ”大熱狂を体験。 ※この年の全戦の模様は双葉社刊「ジャック・ビルヌーブ」に詳しく乗っています。



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